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京都の西郷(せご)どん-西郷どんの子西郷菊次郎京都市長の功績-
平成30年1月からNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の放送が開始されます。主人公の西郷隆盛と言えば,薩摩藩(今の鹿児島県)出身で,幕末に活躍し,明治維新を成しとげた人物としてとても有名です。
そんな優れたリーダーである「西郷どん」には息子がいました。その息子,実は,第2代京都市長なのです。名は「西郷菊次郎」。
明治期の京都という,都市衰退の危機に瀕していた激動の時代をけん引した京都市長・西郷菊次郎氏の功績を御紹介します。

西郷菊次郎市長写真
西郷菊次郎市長
(明治維新の英傑西郷隆盛の子)
※西郷菊次郎氏の御親族から御提供いただいた写真

プロフィール

  • 西郷隆盛と愛子(愛加那)の子として誕生。
  • 西南戦争後,外務省に入り,米国公使館や本省で勤務。明治37年(1904年)には,43歳の若さで京都市長(6年半)の任に就く。

「明治」という時代は,日本の近代国家への歩みの出発点でしたが,京都にとっては,明治維新で都の地位を失い,人口が3分の2に激減する深刻な人口減少と都市衰退の危機という,歴史的な困難からの出発でした。
この危機に対して,町衆をはじめとする人々が英知を結集し,日本初となる小学校の創設などを行いました。

上京28番組小学校写真
上京28番組小学校(現・京極小学校)が開校

しかし,西郷菊次郎が市長に就任した明治30年代はまだ,京都の旧市街は道路が狭く,上水道や満足な下水道もなかったため,飲料水は汚染され,伝染病が流行するなど,まちづくりの課題がありました。明治20年代,琵琶湖疏水(第一疏水)が竣工し,水力発電による動力用電力を得ましたが,疏水からの電力は,京都の需要に十分なものではありませんでした。京都は,近世以来の三大都市(三都)の一つでしたが,その地位から没落するのではないかという危機感がまだ根強くありました。

京都市街新細図/明治27年(1894年)写真
京都市街新細図/明治27年(1894年)
(国際日本文化研究センター所蔵)

こうした中,京都市長に就任したのが,西郷菊次郎でした。
明治30年代に,京都は,近代都市への脱皮を目指すべく,西郷菊次郎という大変有力な市長を迎えたのです。当時の京都市の有力者たちは,西郷隆盛の息子というカリスマ性を持つ西郷菊次郎を市長に選出し,積極的な都市改造を託したのでした。
西郷菊次郎市長は,自治権を持てるようになった京都市をさらに飛躍させるため,「京都市政」として初めての大事業ともいえる三大事業を計画しました。

三大事業起工式写真
三大事業起工式(岡崎公園での余興の様子)

三大事業とは,①第二琵琶湖疏水を作り,多くの水や電力をえる,②第二疏水からの大幅な水量増加を利用して,上水道を敷設し,市の衛生状態を改善する,③主な七つの道路を拡築すること,です。また,そこに軌道を敷設して,市電を走らせ,電気事業を市で経営する計画もありました。
西郷市長は,三大事業によって,市内の輸送力を大幅に増加させ,さらに街灯をランプから電灯へ,京都の夜を明るく一変させることも構想したのです。

その事業は,当時の京都市の市税収入の34倍にものぼる巨大事業でしたが,西郷市長は「百年の大計を図る上において,最も有益なるのみならず,その財源を外資に仰がんとする上においても恰好なる事業と信じる」と,外国債を発行してでもやり遂げる方針を示しました。

多額の事業費などに対して,当時の市民がこぞって三大事業に賛成したわけではありませんでしたが,西郷市長の強い信念は,まず,技術者たちの心に火をつけ,「百年の大計」が動き出します。
例えば,琵琶湖疏水は,当時,一般的であった外国人技術者の援助を受けることなく,すべて日本人の手により工事を行い,レンガなどの多くの工事用資材を自給自足で賄うなど,大変な困難を創意工夫で乗り越えていきました。

また,大型プロジェクトを強力に進める一方で,西郷市長は市民目線に立った区行政も重要視しており,就任後,さっそく上下京の両区役所で訓示と視察を行いました。
その際,「区役所の事務は最も人民に接するものであり,市民の便利を図り,公利公益を増進させてほしい,そのためには迅速な事務作業・誠実・公平を忘れてはならない」と話し,職員を激励したそうです。

上京区役所の写真
上京区役所の写真(1910年頃)
新築された下京区役所の写真
新築された下京区役所の写真

このように,西郷市長は,父親譲り(?)の強いリーダーシップを発揮して,着実に三大事業を進めるとともに,広い視野で市政を進めていたようです。そうした功績が認められ,市長として,2期目を担当することになった矢先,突然体調を崩し,自宅での療養生活に入らざるを得なくなったことから,市長を辞任することとなりました。

蹴上発電所の写真
蹴上発電所の写真

西郷市長の辞任の最大の理由は体調を崩されたことですが,安心して辞任できた背景には,三大事業が軌道に乗って順調に展開していたことがあげられます。(伊藤之雄「日露戦後の都市改造事業の展開」)

そして,西郷市長が市会に「三大事業」という言葉とともに提案してから6年と3か月後の明治45年6月15日には三大事業竣工の祝賀式典が執り行われ,西郷市長が描いた京都の街並みが現実のものとなりました。

これにより,京都市は,東西の今出川通(千本~烏丸間)・丸太町通・四条通・七条通,南北の東山通(丸太町以南)・烏丸通・千本通・大宮通という拡築された幹線道路に市電が走るようになりました。

上水道の敷設や電灯の普及と合わせて,京都は今,多くの市民がいきいきと暮らし,また,国内外の観光客が感動するまちへと姿を変えていったのです。

大正2年の京都市街全図
京都市街全図/大正2年(1913年)
(国際日本文化研究センター所蔵)